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爆弾魔

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臆病なおれに手を差しのべてやさしく掬いあげてくれたヒョンは、おれの唯一の光で、唯一の愛だった。

 ぼろぼろなおれの顔を覗き込んで、あの骨張ったきれいなゆびでそっと涙を拭いながら、眉を下げてきれいな瞳を震わせて控えめに、それでいて芯の通ったうつくしい声で「だいじょうぶ?」と問うた、あのなんとも言えないかおを、おれはただただ“きれいだ”と、そう思った。

 おれを暗闇から引っ張りあげて、手をぎゅう、と握ったまま心地よい世界に連れ出してくれたヒョン。不安に襲われ泣きじゃくればその暖かい腕のなかにこっそり招き入れてくれたし、降りかかるしあわせに笑みを浮かべればヒョンもうれしそうに微笑んでくれた。そうしておれは、どんどんヒョンしか見えなくなって、とうとうヒョンに溺れてしまった。思えば、おれの想い出のきらきらしたところにはどこにだってヒョンがいた。想い出のヒョンはどんな表情をしていても愛おしかったから、それならそれでいいや、とそう思った。けれど。皮肉なことに、中途半端におれにやさしさを与えおれを溺れさせたヒョンは、終におれのまえから姿を消した。まるで紅葉に紛れるように。まるで桜の花弁に攫われるように。音もなく、誰にも悟らせぬように、ひとりで居なくなってしまった。おれはヒョンのことを愛しているのに、おれを置いていったヒョンがどうしようもなく憎かった。愛したことすら忘れようと頭を振りかぶってみるけれど、何度やってもうまくいかない。想い出に居座り続けるヒョンがあまりにもきれいに咲うものだから、自らしあわせを掻き消すのが躊躇われるのだ。いつだって、ヒョンはずるい。

 ヒョンが居なくなると分かっていたら、おれはあのときどうしていただろう。もっといっしょに笑いあって、ヒョンの名前を呼びながら態とらしくその胸に飛び込んで、こころがくすぐったくなるほどにじゃれ合っただろうか。それとも、ただただ「行くな」と嗚咽を漏らしてその身体に縋っただろうか。

 おれは、考えてもしょうがないことにぐるぐると思考を割きながら、“爆弾”を抱えて目まぐるしくてつめたい夜の街を歩く。きっとこの街の誰もが自分のことに精一杯で、いまおれが仮にこの“爆弾”を声高に掲げたとて誰ひとり気に留めやしないだろう。そうしておれのヒョンに向けるあつくて甘い感情すら受け容れて貰えない。そんな世界が、憎くて忌々しくて、いっそ非情で残酷なこの夜を吹き飛ばして感情のままぐちゃぐちゃに掻き乱してやりたかった。ずるくて、それでいて誰よりもきれいなヒョンのことはおれだけが覚えていればいい。

 だけどもそれは叶わない。臆病なおれはヒョンが居なくちゃなにもできないのだ。ヒョンが隣でおれの手を握っていてくれないと、想い出に抱かれて笑うことも、世界を恨んで泣くこともできない。再びからっぽになったおれには、すべてを壊す勇気なんて残っていなかった。

 だから、だいすきなヒョンを抱えて吹き飛ぶのはたったひとり、おれだけでいい、と、そう考えた。

  かつり、かつり、革靴が硬いコンクリートの面を叩く。刺すようにつめたい空気を吸い込んで肺を満たしてから、ゆっくりと吐き出す。どくりと心臓が鼓動して、そこからじんわりと身体中に熱が宿る。かちゃり。音を立ててコートの内ポケットから“爆弾”を取り出して、躊躇いなく左胸に先端を充てた。犯行現場にここら一帯でいちばん高いこの場所を選んだのは、無情な世界と残酷なヒョンへのせめてもの当てつけだ。

 こころを、おれのすべてを捧げただいすきなヒョンを忘れ去るには、きっとこの愚かなこころごと壊してしまわないと。さようなら、世界。おれはヒョンというまぶしい光をこの身に抱きながら、愛するヒョンだけを想い出に宿してここから去ることにする。だから、世界、お前らは安心して吹き飛んでしまえばいい。

 おれは、今日、いま、この瞬間から、ひとり誰よりも幸せになるのだから。凍てつく夜の空気を割いて、まるでなにかの警告のように際立って響く乾いた音。辺りを歩く誰もがその音で鼓膜を震わせただろう。

 左手をきゅっと握りしめて、どこか満足気な笑みを浮かべながら横たわるドンヒョクの胸元に咲いた花は、この夜の誰よりも雄弁だった。